大日本史番外編 「朝鮮の巻」
強制連行の実態


 戦時中の朝鮮人労働者内地導入には3段階あったことと徴用令の関係を理解しましょう。

「教科書が教えない歴史(4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社

 「1939年( 昭和14年 )から1945年までの間に約70万人もの朝鮮人の人々が強制連行によって日本につれてこられたとされています。」

 中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。 そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。 それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。

 1938年( 昭和13年 )に、日本の国会で国家総動員法( 国民徴用令は1939年 )が成立しました。 この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳までの女子を、国家は徴用できるようになりました。 「徴兵」 が兵士になる義務であるように、 「徴用」 とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。 多くの若者が出征し労働力不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。

 徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。 当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。

 さて当時、法的には 「日本国民」 であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。 台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。 その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を 「募集」 することを許可しました。 それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。 制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました。

 けれども、1942年( 昭和17年 )になると、さらに人手不足は深刻になりました。 朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを 「官斡旋」 といいました。 官斡旋は、面( 村 )ごとに人数を割り当てました。 そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。 それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。 例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。 そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。 正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。
 朝鮮にも 「徴用」 令が施行されたのは、1944年( 昭和19年 )になってからでした。 けれども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。 そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。

 1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。

 「…… 後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。 広場は出発する人、見送る人で一杯だった。 徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」( 「朝鮮人徴用工の手記」 河合出版 )

 鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。 本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。

 これは教科書が描き出す 「強制連行」 のイメージとはまったく異なっています。
「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992 亜紀書房

 また、いわゆる 「強制連行」 の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。 たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の 「官斡旋」 による道外募集( いわゆる強制連行の一部とされている )では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。 たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている( くわしくは広瀬貞三 「『官斡旋』 と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』 第29集参照 )

 また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記( 『朝鮮人徴用工の手記』 河合出版 )の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」 と書いている。

 先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。 それにより韓国人が強制連行されたというなら、同様に大多数の日本人も 「強制連行」されたというのが歴史の真実なのである。

 戦争初期には朝鮮人は日本人・台湾人に比して優遇されていたのが分かる。 「官斡旋」 の段階でも本人の希望で就職先を変えられることから “強制連行” というのは大げさな表現だ。

 コリアン・反日左翼は 「募集」 の段階から “強制連行” だとしているが、当時朝鮮から日本内地へは渡航制限をしていたが、密航してでも出稼ぎしようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で強制連行の必要があるのだろうか。 “強制連行” などしなくても労働者は確保できたのである。

「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店

 1930年代後半、西日本で 『密航』 の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され( 1939年は7400人 )、大半が朝鮮に送還された。 その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには 『内地人を仮称』 して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。
戦前の新聞記事見出しより

『四百廿余名の密航鮮人 / 内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々 / ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人 / 西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸( 粕屋郡志賀島村 )』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸 / トラック運転手の気転で大半は逮捕される( 遠賀郡水巻村 )』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航( 小倉市 )』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる( 宗像郡津屋崎町 )』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中 / 果して密航半島人! / 海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に( 宗像郡神湊町 )』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船 / 鮮人十八名を逮捕す( 宗像郡津屋崎町 )』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航 / 五十余名を検挙す( 宗像郡岬村 )』 福岡日日1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入 / 一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か / 怪機船倉橋島に出没 / 呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる( 八幡市 )』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名( 遠賀郡岡垣村 )』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど / 途方に暮れる気の毒な鮮人 / 今度は逆戻り失敗( 兵庫 )』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還( 兵庫協和会 )』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難 / 県の密航鮮人狩り / 今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間 / 密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕

在日朝鮮人人口の推移

在日朝鮮人人口動態 内務省警保局統計
年度 在日
朝鮮人数
増加人口数
( 前年比 )
   特記
1910 -  -  韓国併合・朝鮮で「土地調査事業」~1918
1915 3989 -   
1916 5638 1649  
1917 1万4501 8863  
1918 2万2262 7761 第一次世界大戦終了・日本で米騒動
1919 2万8272 6010 朝鮮で3.1独立運動起こる・朝鮮人の渡日制限~1922
1920 3万0175 1903 朝鮮で「産米増殖計画」~1934
1921 3万5876 5693  
1922 5万9865 2万3989 日本への「自由渡航制」
1923 8万0617 2万0752 関東大震災
1924 12万0238 3万9621  
1925 13万3710 1万3472 再び日本への「渡航制限」~1938
1926 14万8503 1万4793  
1927 17万5911 2万7408  
1928 24万3328 6万7417  
1929 27万6031 3万2703  
1930 29万8091 2万2060 日本に世界恐慌が波及
1931 31万8212 2万0121 満州事変( 日中15年戦争の始まり )
1932 39万0543 7万2331 満州国建国
1933 46万6217 7万5674  
1934 53万7576 7万1359  
1935 62万5678 8万8102  
1936 69万0501 6万4823  
1937 73万5689 4万5188 盧溝橋事件で戦火拡大
1938 79万9865 6万4176 国家総動員法が成立
1939
(昭和14年)
96万1591 16万1726 国民徴用令が成立( 朝鮮に適用されたのは1944年9月から )
「募集」:日本企業が朝鮮で自由に労働者を募集することを許可
1940 119万0444 22万8853  
1941 146万9230 27万8786 真珠湾攻撃で日米開戦
1942 162万5054 15万5824 「官斡旋」:総督府が朝鮮人労働者を募集
1943 188万2456 25万7402  
1944 193万6843 5万4387 「徴用」:法律により労働を強制された
1945
(昭和20年)
210万0000
(諸説あり )
終戦
1946
3月18日
64万7006 厚生省による在日朝鮮人の登録
( この時登録しない者がいたので100万人程いたと書く本もあり )
:::  
1999
年末
54万6553


昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画の実態

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画

◆ その多くは自発的に来日

 誤解の第一は、終戦時約200万人を数えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自発的な意志によって渡航して来たもので、 『強制的』 に 『連行』 されたものではない、ということである。 いわゆる 『強制連行』 は、大東亜戦争勃発に伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和17年( 1942 )に、それまで自由募集であった朝鮮人労働者を 『官斡旋』、すなわち朝鮮総督府が募集することにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して言う場合多いようだが、その実態ははなはだ不明瞭である。

 そもそも日韓併合以降、 貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、 朝鮮総督府や日本政府は法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、 終始頭を痛めていた。 法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたというのに、 何で 『強制連行』 の必要があるのだろうか。 その必要はなかったし、むしろ日本側は迷惑していた。
 昭和4年( 1929 )の 『瀬戸方面に於ける朝鮮労働者事情』 ( 名古屋地方職業紹介所 )によれば、朝鮮と日本内地の賃金格差は二倍もあり、これに加えて毎年30万人に及ぶ朝鮮人の人口増加により、内地のみならず満州やシベリアへも多数の朝鮮人が移住しつつあった。 日本内地への渡航希望者は度重なる日本側の規制にも拘わらず増加の一途をたどったのである。

 昭和14年( 1939 )、内務省次官通牒 『朝鮮人労務者内地移住に関する件』 で、8万5000人の朝鮮人労働者の移住が認められると、炭坑の募集係のところには朝鮮人農民がどっと押し寄せ、夜中から列をなして待っていた有り様であったという。

 また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人 『強制連行』 の起源と誤解している著作が多数見受けられるが( 朝鮮人強制連行真相調査団 「強制連行、強制労働の記録」、朴在一 「在日朝鮮人に関する総合調査研究」 等 )、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない。

◆ 徴用は強制連行ではない

 誤解の第二は、『徴用』 は 『強制連行』 ではないということだ。 当時、内地でも日本人は戦時 『徴用』 されていた。 併合の結果として日本に編入された以上( 植民地ではない )、日本人たる朝鮮人を戦時 『徴用』 しても、 『強制連行』 の概念には当らない。 今日の価値観を、体制の異なる戦時中にそのまま適用するのは歴史解釈として間違っている。

産経新聞 平成12年9月26日 西岡力氏の寄稿

 自民党の野中広務幹事長の 「かつてわが国が36年間植民地支配をした時代に、朝鮮半島から( 強制 )連行してきた人たちが、今70万人といわれる在日を構成している」 という発言を本紙で読み、事実に対するここまでの無知はないと驚きを超えて怒りすら覚えた。 明確な事実誤認が3つある。

 第一は、昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の在日の中にほとんどいないという点だ。 終戦時の在日人口は約200万人であり、そのうち移送計画による労働者は32万人に過ぎない。 占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限230キロまでという条件で帰国させた。 昭和21年末までに約140万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。 引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。 結果として、32万人の 「連行者」 はほとんどこのとき帰国している。 このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている。

 第二は、そもそも上記の朝鮮人内地移送計画の実態が 「強制連行」 などというものではなかったという点だ。 計画期間中、在日人口は120万人増加する。 各種統計を総合すると、このうち出稼ぎ渡航者とその家族が63万人で過半数となる。 戦時中、労働者不足が激しかった内地に向かい朝鮮人は自分の意志で大量に渡航していたのだ。 前記の32万人が終戦時における戦時動員労働者である。 残り25万人は 「官斡旋」 「徴用」 で渡日した後、現場を逃走し条件のよい飯場などで働く 「自由労働者」 ( 当時の用語 )となった者である。 昭和20年内地における朝鮮人土建労働者を見ると、計画による動員労働者一に対して自由労働者七の割合であった。 日本政府は移送計画実施期間中も内地に密航した朝鮮人を取り締まり朝鮮に送り返していた。 こちらこそが本当の強制連行だ。 「官斡旋」 「徴用」 は出稼ぎで建設現場などで働こうとしていた朝鮮人労働者の働き先を炭鉱、金属鉱山など軍事産業に転換させるというものであり、それは全渡日者のうち四分の一だけしか対象にできず、ほぼ失敗した政策だったのだ。

 第三は、戦前から継続して日本に在留しつづけている在日韓国・朝鮮人( 子孫含む )でいまだに外国籍を維持したままの者は70万人ではなく約52万である。 日本政府は彼らに 「特別永住」 という他の外国人にはない特別に優遇した法的地位を与えている。 社会保障制度も日本人と同じ扱いがされ、その地位は子孫代々まで保障されている。 この52万人以外の在日韓国・朝鮮人はいわゆる戦後入国者だ。

 外国人地方参政権付与は基本的事実関係すら知らない与党幹部によって推進されている。 事実に基づかない安易な贖罪しょくざい罪意識は百害あって一利なしだ。 参政権が欲しければ帰化手続きにより日本国籍をとればよい。 すでに23万人以上の韓国・朝鮮人がそれを選択している。