石平氏の最新著 『韓民族こそ歴史の加害者である』 が面白い。 タイトルこそセンセーショナルだが、冷静な筆致で史実を丹念に辿り、その上で、このタイトル通りの結論を引き出している。

 「目からうろこ」 という使い古された表現があるが、この本はまさに、今まで我々の目を覆っていた 「韓民族は日本帝国主義の被害者だった」 という鱗を取り除き、韓民族の真の姿をはっきりと見せつけてくれる。 今後、この本を読まずして、北朝鮮や韓国に関する歴史も外交も議論できない事になるだろう。

 前置きが長くなったが、本書は、韓民族が内部抗争に勝つために周辺諸国を戦争に引きずり込んだ、というパターンが、7世紀初頭の高句麗・百済・新羅の三国統一戦争から、20世紀の朝鮮戦争まで繰り返されたという史実を克明に描いている。

 その中で、日本が巻き込まれたのが、西暦661年の白村江の戦い、1274( 文永11 )年、1281( 弘安4 )年の元寇、そして近代の日清戦争、日露戦争ある。 特に元寇では、高麗国王が自らの生き残りのために、日本征伐をフビライに提案する経緯が生々しく描かれていて、 「そうだったのか」 と思わせる。

 本稿では、このうちの近代における日清、日露、朝鮮戦争の部分のさわりを紹介して、同書へのいざないとしたい。




 日清戦争の発端は、朝鮮王朝の第26代国王・高宗の実父・大院君と、王妃・閔妃びんひ一派の抗争だった。 閔妃一派は、1873年に大院君を失脚させ、日本と日朝修好条約を結んで、近代化路線をとった。 その一環として、日本から軍事教官を招いて、軍の近代化を図った。

 これに不満を抱いた旧式軍の軍人たちが、1882年、閔妃一族の高官の屋敷を襲った後、大院君の許に逃げ込んで、助けを求めた。 大院君は、これを権力奪回のチャンスと見て、閔妃一族の殺害、日本公使館と日本人教官の襲撃を命じた。 彼等はその指示通り、日本人13人を虐殺した。

 閔妃は宮殿から逃げ出したが、高宗に密書を送って、起死回生の秘策を授ける。 それは密使を清国に送って、軍勢を派遣して貰うよう依頼することだった。 それに応えて、清は3千人を朝鮮半島に送り込み、反乱を起こした韓国軍兵士たちを鎮圧した。

 これを機に、清国は3千人の軍勢をそのまま半島に駐留させ、朝鮮を完全な属国とした。 大院君は捕らえられ、清国に拉致された。

 この状況に反発したのが、金玉均きんぎょくきん率いる若手官僚グループであった。 金玉均は日本とのパイプを持ち、漢城( 現在のソウル )に駐留していた日本軍の力を借りて、閔氏一族を一掃し、高宗を担いで政権を掌握しようとした。 当時、多数の邦人を殺された日本は、邦人保護のために、朝鮮政府の許可を得て、数百人規模の兵力を漢城に置いていたのである。

 金玉均が、日本の明治維新をお手本として朝鮮の近代化を目指し、日・中・朝鮮の3国の同盟でアジアの衰運を挽回すべきという 「三和主義」 は、福沢諭吉など日本の朝野の支持を集めていた。

 金玉均ら50名は日本軍150名とともに、1884年にクーデターを起こし、一時は新政府樹立を宣言したが、清国軍1500人と朝鮮政府軍の反撃で、衆寡敵せず、わずか3日で鎮圧された。 金玉均は日本公使・竹添進一郎とともに海路日本に脱出したが、約30人の日本人が殺害され、さらに多くの朝鮮人が処刑された。




 1889年、 「東学党の乱」 と呼ばれる農民一揆が起こり、1894年には数万人規模となった農民軍が一地方を占拠した。 朝鮮政府は、東学党鎮圧のための出兵を清国政府に要請した。 清国は2隻の軍艦を仁川に派遣し、2千8百人の兵を上陸させた。
 これに対抗して、日本は公使館と居留邦人保護という名目で約6千人を派兵した。 10年前の乱の際に、日本は清国と 「天津条約」 を結び、どちらかが朝鮮に派兵した際には、通告すると約束していたのである。

 石平氏は、こう語る。
 近代朝鮮が自立した独立国家として、南下する大陸国家との緩衝地帯になってくれず、清国の大軍を半島に招き入れて植民地支配を受け入れたことが、日本の安全保障に重大な脅威を与えていた以上、日本はもはや戦わざるを得なかった。
 7月23日、大鳥公使は、清国から送還されて謹慎中だった大院君を擁立し、その命を受ける形で、日本軍は王宮を占拠し、親清派の閔氏勢力を一掃した。 ここに日清戦争が始まったのである。

 機を見るに敏な高宗は、1895年1月、まだ日本軍が清国と戦っている最中にも関わらず、世子や王族・各大臣を引き連れて、清国との宗族関係を破棄したとする独立誓告文を宗廟に奉告し、全国に宣布した。 戦い続けている日本と清国こそ、いい面の皮である

 日清戦争に勝利した日本は、清国と日清講和条約( 下関条約 )を結ぶが、その第一条は 「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」 となっている。

 まさに朝鮮は、日本の力によって、 「自主独立」 の地位を得たのである。




 日本は下関条約で、台湾と遼東半島を得たが、これに待ったをかけたのが、ロシアだった。 ロシアはドイツ、フランスと謀って、遼東半島を清国に返還するよう要求した。 三国を敵に回す力のない日本は、やむなくこの三国干渉に従った。

 これを見て、高宗と閔妃は手のひらを返すように、ロシアに急接近した。 ロシア公使のウェーバーと共謀して、内閣の親日改革派を追い落とす。

 このままでは朝鮮半島をロシアに握られ、日本にとっても一大危機となると、三浦梧楼公使と日本の浪人たちが、朝鮮の王宮に乱入し、閔妃を斬殺した。 この蛮行で、国際社会と朝鮮国内の日本の立場は悪くなり、親露派が勢いを増した。

 1896年2月、親露派はウェーバーと共謀して、ロシア軍艦から120名の将兵を漢城に呼び出し、彼等に護送される形で、高宗と世子をロシア公使館に移した。 高宗は親政を宣言し、内閣の大臣5人を逆賊として逮捕殺令を布告した。

 こうして朝鮮国王がロシア公使館から 「親政」 を行うという世界史上でも類例のない珍事が1年以上にわたって続いた。 親政といっても、ロシア人の将校と財政顧問がそれぞれ軍事と財政を握った属国政治である。

 こうして、日本は日清戦争を戦って、清国の覇権を排除したのもつかの間、今度はさらに強大なロシアが半島に居座ってしまったのである。 日本の独立が再び脅かされる事態となり、今度は日露戦争を戦わざるをえなくなった。

 何とか、日露戦争に勝って、ロシアと結んだポーツマス条約の第一条では、 「ロシアは大韓帝国における日本の政治上・軍事上および経済上の利益を認め、日本の韓国に対する指導、保護および監督に対し、干渉しないこと」 と約した。 まさに清国相手の下関条約の繰り返しだった。




 ロシア勢力を駆逐した後、日本は日韓合邦に進むが、その動機を石平氏はこう解説する。
 韓国を放っておけば、悪夢のような歴史がまた繰り返されるかもしれない。 日本にとって、 「朝鮮問題」 の完全かつ最終的な解決は、韓国そのものの併合以外にはないというのが、当時の帝国主義や植民地主義、弱肉強食の世界秩序の中で、安全保障を手に入れる鉄則だったのである。
 しかし、奇妙なことに、朝鮮側でも、日韓合邦を熱望した一派がいた。 自称100万、実態は20数万人の、当時としては最大規模の民間団体 「一進会」 である。 一進会は 「外交権を日本政府に委託し、日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」 という宣言書を発表した。 さらに会の幹部は、1909( 明治42 )年2月、桂太郎首相に、両国の 「合邦」 を提言した。

 日本政府が日韓合邦を進める上で、こういう韓国内の声が大きな後押しとなった。 日本との合邦を決めた韓国の閣議でも、一人を除く全閣僚が賛成した。

 ある民族がその大衆運動によって、自国の独立を進んで犠牲にしてまで隣国への吸収合併を望むというのは、世界史上の奇観である。 アメリカの朝鮮史家グレゴリー・ヘンダーソンは、一進会の動きを評し、 「事実それは、政治史上、自分の民族に対して行われた反民族主義的大衆運動として、今までになかった唯一の例である」 と述べている。

 もちろん、日本に習って自分たちの近代化を進めようと努力した人々もいたが、やはり朝鮮の伝統的な事大主義、すなわち 「寄らば大樹の陰」 という心情が一般大衆の中に根づいていなければ、ここまでの熱烈な大衆運動は起こりえなかっただろう。

 併合期間中に、日本政府は朝鮮半島に近代化のための膨大な資本投下を行い、30余年間で農業生産も人口も2倍以上に増加するという高度成長を実現した。 しかし、その平和と繁栄も、日本の敗戦によって終止符が打たれる。




 日本の降伏後、米ソは38度線を境にして、それぞれ南北を占領した。 米ソ英は5年間の信託統治期間の後、朝鮮の独立と統一政権の樹立を図るという 「モスクワ協定」 を結んだが、肝心の韓民族自身が、例の如く内部闘争に明け暮れて、統一政権どころではなかった。

 結局、ソ連を背景とした金日成と、アメリカから戻った李承晩が、それぞれ北朝鮮と韓国の政権を樹立した。 それだけでなく、彼等は、それぞれ相手国を打倒して、自らが朝鮮の統一政権になることを目指していた。

 最初に仕掛けたのは金日成だった。 当時は日本の産業施設が多く残っていた北朝鮮の方が、農業中心の韓国よりも、圧倒的に国力は上だった。 金日成はソ連のスターリンに南進の許可を求めた。 邪悪な政略の天才スターリンは、もしアメリカとの戦争になったら、中国を矢面に立たせようと、毛沢東の支援を得るよう指示した。

 中華人民共和国を建国したばかりの毛沢東は慎重で、38度線を越えてアメリカが攻め込んできたら、自国の国境が脅かされるので参戦をする、と消極的な支持を表明した。 これをもとに、北朝鮮は1950年6月25日、38度線を越えて、韓国内に侵攻した。




 北朝鮮は2ヶ月後の8月末には南朝鮮の90%以上の領土を占拠したが、ここで米軍を中心とした国連軍が救援に入り、わずか1ヶ月でソウルを奪還した。 米軍もも国連軍も、38度線まで奪還すれば、そこで戦闘を止める計画だった。 その通りに事が運んでいたら、朝鮮戦争は3ヶ月で停戦を迎えていたはずだった。

 しかし、ここで李承晩は一気に北朝鮮を打倒して統一政府を作ろうと、韓国軍に38度線を突破させた。 これに引きずられる形で、国連軍も38度線を越えて進撃し、ついには中国国境沿いにまで近づいた。 ここで毛沢東はやむなく中国共産党軍を投入したのである。

 こうして米中の激突となった朝鮮戦争はさらに2年9ヶ月以上も続き、結局、38度線の振り出しに戻って、停戦を迎えた。 金日成なくば、そもそも朝鮮戦争は起こらずに済んだかも知れないし、李承晩がいなければ、3ヶ月で終わって、その後の6百万の犠牲者の大部分は失われずに済んだろう。

 結局、韓民族の内部抗争と外部勢力の引きずり込みという伝統的な宿痾で、米中ともに何の益もない戦争に巻き込まれたのである。




 こうして朝鮮半島の歴史を通観して見ると、日清、日露、朝鮮戦争という3つの戦争とも、同じ構造をしていることが明らかになる。 韓民族が内部抗争に勝つために、それぞれ周辺諸国を戦争に引きずり込むというパターンである。

 通常の民族のように、韓民族が一つにまとまって独立統一国家を作っていれば、中国、ロシア、日本の緩衝地帯となり、東アジアの平和が保たれていた可能性もある。 そう考えると、韓民族は 「東アジアのトラブルメーカー」 だ、という石平氏の指摘は説得力を持つ。

 韓民族が内部抗争という宿痾を自ら克服できないなら、今のように南北でせめぎ合い、結果として日米中ソの緩衝地帯になっている方が良い、というのは、冷酷な地政学的戦略から言えば、合理性がある。 米中とも、現在はその戦略をとっているのだろう。 だから、北朝鮮で膨大な餓死者が出ようと、各国は手は出さないのであるこれが冷厳な国際社会の実態である

 「半島とは一定の距離をおいて、韓民族内部の紛争にできるだけ関与しないようにするのが、もっとも賢明な道」 とは石平氏の結論であるが、この本で半島の歴史を丹念に辿ってみれば、頷くしかない結論である。

 この結論は、日清戦争前に金玉均が残忍な方法で処刑された後、彼を支援していた福沢諭吉が 『脱亜論』 で 「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」 と語ったのと同じである。 この叡知を当時から活用していれば、我が国の近代史もまた別の形になったであろう。 我々は歴史の叡知を活用し損ねたようだ。